農業・資源経済学専攻のすすめ

 「直ぐ役に立つ人間は直ぐ役に立たなくなる人間だ」。慶応大学理工学部の前身、藤原工業大学の初代学部長をつとめた谷村豊太郎は、実業界の「直ぐ役に立つ人間を作ってもらいたい」との注文に対してこんな具合に応えたという。そのとおり、まことにもって至言である。私たち農経(農業・資源経済学は昔からこう呼ばれている)の気質にも、おおいに通じるところのあるアフォリズムである。諸君が農経に進学したからといって、急にあざやかに変身し、たちどころにつぶしが利くようになるわけではない。そんなことを期待してもらってはこちらも困る。専門の勉強であるから、多少のテクニックは伝授する。
 けれども、テクニックはあくまでもテクニックであって、これを磨き上げるところに農経の本領があるわけではない。むしろ、つぎの三つのことがらを心がけていただきたいと思う。 ひとつは事実を深く観察する力である。農経における事実とは、すべてが人間の行動にかんする事実である。人間が人間を対象とする社会科学では、自然科学とは異なって、実験を行うことができない。ここが社会科学のむずかしいところである。けれども、人間が人間を対象にするのであるから、みずからの経験に照らして相手の心情の一端を汲み取ることはできる。エンパシーである。ここが社会科学としての農業経済学の強みである。農家の庭先でうかがい知ることのできる生産者の表情は、しばしばよく吟味された統計数字以上に、農村の事実を伝えるものなのである。イギリスの農村であっても、タイの農村であっても、事情はまったく変わらない。
 事実のなかにパラドックスを見つけだし、パラドックスを解き明かそうとする精神。これが心がけていただきたい二番目のことがらである。例えばこんなパラドックスがある。8億を超える飢餓と栄養不良の人々を救うために行われる食料の援助は、ときとしてその意図に反して農業不振という逆効果を生んでしまう。なぜであろうか。こうした問いをみずから探し出してもらいたい。そして、みずから真の解答を探し求めていただきたい。解き明かすべき大小さまざまなパラドックスがあるからこそ、農業経済学は依然として知的な刺激にみちた分野であり続けている。みずから解答を探し求めるといっても、無手勝流でははなはだ効率が悪い。効率が悪いだけならばまだしも、勝手な思い込みでもって珍妙な解決策を振り回されたのでは、相手だって迷惑だ。そこで第三に、考える道具としての経済学を学んでいただきたい。知識としての経済学の学習にとどまっていてはいけない。エレガントな証明だけがとりえのような経済学も、残念ながら農経とは無縁である。現実の社会の問題を考えるための骨太な道具、考えた筋道を的確に表現する頑健な文法、これが私たちにとっての経済学である。ともあれ、農経に進学したとしよう。そこから先の2年はなんといっても投資の2年である。一生をかけてじっくり収穫することのできる永年性の作物を、ひとつしっかり根付かせていただきたいものである。